今日は、「他人との比較をやめずに、他人との比較をやめる方法」を君に伝えたい。
「は?なに言うてんねん」って思ったかもしれんけど、安心してええ。
俺はいたって真剣や。で、実際これで俺は“他人との比較”をやめることができた。
……いや、正確に言うと、「比べても自己嫌悪せんようになった」ってのが近い。
でも君もたぶん、悩んでんのはそっちやろ?
比べること自体よりも、比べた結果、自分を嫌いになること。
そいつがキツいんやろ?
昔の俺もそうやった。
バイトひとつとっても、「このバイトしてる俺、魅力ないんちゃうか」とか、
「2日で辞めた俺、ダメ人間やな」とか、いちいち落ち込んでた。
今思えば、アホみたいやけど、そのときの俺はガチで苦しかった。
結局、その「魅力的」も「ダメ人間」も、他人がいなければ湧いてこない感情なんよな。
つまり全部、「他人との比較」や。ほんま、それが元凶やと思う。
今の君は、どんなふうに他人と比べてしまってるやろう?
「友達は行動してるのに、自分は何もできていない」とか、
「自分は童貞なのに、あいつは彼女いる」とか、
「カップルが羨ましくてしょうがない」とか。
そういうの、生きてるだけで無限に湧いてくる。
逃げようがない。マジでしんどいよな。
でな、俺が一番しんどかったのは──
家族とか友達にすら、それを感じてしまうことやった。
自分よりスペックが高い兄弟、
容姿が整ってる友達、
いつの間にか前に進んでる誰か。
そんなやつらに後ろめたさを抱いて、
「俺、こんなふうに思ってもうてる…」って罪悪感がドッと押し寄せる。
ほんでまた、そんな自分に嫌気が差して落ち込む。
これの繰り返しや。
ほんま、地味で静かで、でも底なしに苦しいループやった。
でも、もし今の君がそんな状態におるなら──
この記事は、その君に向けて書いてる。
他人との比較を「無理にやめよう」とせんでもええ。
比べても自己嫌悪せん方法が、ちゃんとある。
しかもこの方法、俺の人生で誰にも教えてもらったことがない。
自分で気づいたやり方や。
せやからこそ、この記事に書く意味があると思ってる。
本気で苦しんでるなら、最後まで読んでみてくれ。
これを読んだ君が、「比べても苦しまない自分」になれることを願ってる。
目次
それ、“比較”のせいちゃうぞ

はじめに、君の悩みの根源を明確にしていく。
君は、他人との比較によって嫉妬心や罪悪感、劣等感といった感情が湧くから、
「他人との比較こそが悪や」と思っとるかもしれん。
でもな、それはちゃうんや。
そういった感情が湧くこと自体は、自然なことや。
お腹が空くのと同じやし、眠くなるのと一緒や。
せやのに、「感情を消す方法」を探してまうのは、
ダイエットをするために「お腹が空かない方法」を見つけようとするのと同じくらい的外れなんや。
まずはこのことを、ちゃんと理解せなあかん。
大前提として、「他人との比較を完全にやめる」なんてのは無理な話や。
なぜなら、世の中には**“他人”が存在する**から。
どれだけ「比較せんように」と意識しても、
街に出れば自分より金持ちがおって、スペックの高いやつもおる。
SNSを開けば、自分より充実してそうな人間が溢れてる。
兄弟にも、友達にも、職場にも、学校にも。
比較の材料なんて、どこにでも転がってる。
そん中で「他人との比較を完全にやめる」って、普通に考えて無理やろ。
感情を失うしかない。それはもう人間ちゃうで。
仮に、君が人と関わらんように部屋に閉じこもったとしても、
今度は「部屋にこもってる自分」を外の世界と比べてしまう。
「このままでええんか?」ってな。
だから結論はひとつ。
「比較をやめる」は不可能や。
それを踏まえたうえで──
君のほんまの悩みの根源は何か?
それは、「自己嫌悪」や。
君は、「他人との比較」で湧いてきた感情を、
ネガティブに処理してまうクセがついとるんや。
そして、自分を責めて、苦しくなってる。
たとえば──
恋人がおる友達の投稿を見て、羨ましいなと思う。
その瞬間に「また比較してしまった…」と自分を責める。
「素直に応援できへん自分、最低やな」って落ち込む。
これや。
これが自己嫌悪の始まりであり、君を苦しめとる原因や。
君がまず理解すべきなんは、
「自然に湧いてくる感情」と「自己嫌悪」は別もんやってこと。
感情は感情や。
でも、それをどう扱うかによって、
それが“毒”にもなれば、“ただ流れるもの”にもなる。
君を苦しめてるのは「感情」やない。
**“その感情を嫌って、潰そうとする自分自身”**や。
だからこそ──自己嫌悪をやめろ。
湧いてくる感情を否定するんやなくて、
「あ、今こんなふうに感じてるな」って、ただ認めるだけでええ。
戦わんでええんや。
そしたらな、君が「他人との比較」で悩むことは自然となくなっていく。
ここから先は、「他人との比較をやめずに、自己嫌悪を手放す方法」──
つまり、比べても苦しまへんようになる方法を話していく。
ちゃんと最後まで聞いてってや。
「自己嫌悪のループ」から抜け出す方法
問題は「比較」やない。「自己嫌悪」や。
ほんで、そいつをどう手放すか──ここから話していく。
他人との比較は、悪じゃない

たぶん今の君は、「他人と比べるのはアカンこと」って思い込んどるやろ?
でもな、それこそが君を苦しめとる原因や。わかるか?
さっきも言うたけど、「他人との比較」はやめられへん。てか、やめんでもええ。
それを無理にやめようとして、「比べたらアカン」って自分に呪いかけて、自滅してるだけや。
そら苦しいに決まってるわ。
それってな、「ご飯食べたらアカン」って言い聞かせてるのと同じやねん。
ほんで実際食べてしもたら、「食べたらアカンのに食べてもうた自分」が許されへんくて、自己嫌悪に沈む。
君がやってるのは、まさにこれや。
でもな、他人との比較に“善悪”なんてない。
ただの人間の性や。自然な反応やねん。
腹減ったり、眠たなったりするのと一緒や。
学校や仕事終わって帰ってきたら腹減るやろ?ほんでガパオライスかっこむやん。
それと同じように、自分より上に見える友達見たら、嫉妬も湧く。それでええねん。
夢中でガパオ頬張るように、夢中で嫉妬したらええ。
「比較したらアカン」って蓋するほうが、よっぽど苦しいわ
そもそも、それを「悪い」って決めたんは誰や?
君自身ちゃうか?──なら、もうやめたらええ。
感情はただの“クロワッサン”や

結局な、君が「他人との比較」で感じる嫉妬や罪悪感なんて、ほんまにただのクロワッサンみたいなもんや。
パッと見たら「うわ、なんか重たい感情や…」って思うかもしれへん。けどそれは、別に悪いもんちゃう。善悪なんてない。ただ湧いてきただけの、自然な反応や。
ほんでな、問題はそのクロワッサンをどう扱うかや。
君はテーブルに置いてあるクロワッサンを見て、
「食べずに腐らせたら最悪や…」とか
「勝手に食べたら最低なやつや…」とか思ってまう。
そこで勝手に“呪い”をかけて、自滅していく。これが、君がハマっとる負のループや。
でもな、クロワッサンが嫌ならチキンラーメン頬張ったらええだけやろ?
あるいは、「今日は何も食べへん」って選択肢だってある。
無理に食わんでええし、消そうとせんでええ。
だってそれ、ただのクロワッサンやねんから。
嫉妬も同じや。
嫉妬する自分が嫌なら、自分がほんまにやりたいことをやればええ。
「クロワッサンあるなぁ」って思いながら、黙って好きなことに夢中になればええねん。
でもどうしても気になってしゃあない時は、もう夢中で食うたらええ。
ただし──食わへんかった自分を責めるのはやめろ。
それがまた“呪い”になって、君を苦しめるだけや。
君がやるべきことは、湧いてきた感情を裁くことやなくて、ただ受け止めることや。
「今、嫉妬してるなぁ自分」って、淡々と認めて、そのうえで今できることに没頭する。
あるいは、「没頭できへんで悩んでる自分」にすら没頭したらええ。
それが、結果的に前に進む一歩になることもあるんや。──君が、こうしてこの記事を読んでるみたいにな。
ほんまにな、君の嫉妬も罪悪感も劣等感も、ただのクロワッサンや。
それを腐らすも、うまく味わうも、全部君次第や。
せやからこそ、自分にとって不都合な呪いだけは、もう手放してええ。
もし「他人との比較」でクロワッサン抱えたら、
「お、クロワッサンあるやん」って思えばええ。
それも一種の“呪い”かもしれへんけど、自分に都合のええ呪いなら、どんどん使ったらええ。
その呪いを武器にするんか、足枷にするんか。
それは全部──君の選択や。
ふざけてるように見えるかもしれへん。
でもな、俺は本気や。
少しでも伝わってくれたなら、それが一番嬉しい。
全ての自分を受け入れろ

結局な、ワイが言いたいのはただひとつや。「自己嫌悪、やめとけ」ってことや。
裏返せば、「出てくる感情ぜんぶ受け入れたれ」って話になる。
たとえば君が他人と比べて嫉妬や劣等感を感じたとするやろ?
ほんならこう思えばええんや。
「お、いまめっちゃ嫉妬してるなぁ、ワイ。」
それで十分や。
もし「こんな嫉妬する自分なんてイヤや…」って受け入れられへんのなら、
今度はその**“受け入れられへん自分”**を丸ごと受け入れたったらええ。
「なるほど、受け入れられへんって思っとる自分がおるんやな。」
ほら、クロワッサンの出来上がりや。
自己嫌悪になるはずやったもんが、ただのクロワッサンに変わったやろ?
感情を辿っていくと、結局ぜんぶクロワッサンやって気づくんよ。
そしたらもう、自己嫌悪の沼にハマる理由がなくなる。
なんでか?──全部の自分を許せるようになるからや。
間違ってる行動なんて、ない

もうわかったやろ? “苦しい”と思ってた全部がクロワッサンやったんや。
せやから──**「○○したらアカン」「これは不正解」**なんてルール、ほんまは存在せえへん。
君の行動は、ぜんぶ正解や。
嫉妬も劣等感も、自然に腹が減るのと同じやったやろ?
もしその嫉妬心で友達にちょっと意地悪してもうたら、こう言うたらええ。
「おー、やりすぎたなァ自分。ほな次はやめとこか。」
これで終わりや。
暴飲暴食して「うわ、食べすぎたわ」と気づいたら次回は控える。それと同じや。
間違いはない。気づいた時点で“次に繋がった”時点で、全部正解。
だから自分を責める必要なんてゼロや。
責めなけりゃ、君はいつまでも“君”のまま、のびのび動けるんやで。
君がやりたいようにやれ

ここまで読んでくれた君に、最後に伝えたいことがある。
やりたいようにやれ。ほんまにそれでええ。
さっきも言うたけど、君の行動に「不正解」なんて存在せぇへん。
やりたいことに夢中になるもよし、苦手なことを気楽に片手間でやるもよし。
途中で「やっぱ違うわ」って思うなら、やめたってええ。
「行動しないのは悪」みたいな世間の風潮、あるにはあるけどな──
そんなん気にせんでええ。
腹減ってへんのに無理して飯は食わんやろ? それと同じや。
せやから、「行動しないという行動」もアリやし、
途中でやめるのもアリや。
「逃げるのはアカン」って声も聞こえてくるけど、
車に轢かれそうになったら逃げるやろ? あれと一緒や。
逃げは戦略や。華麗に避けたったらええんよ。
ほんでな、君がほんまにやりたいことをやってれば、
「他人との比較」で苦しむことなんか一切なくなる。
むしろ、周りから「なんでそんな落ち着いてんの?」って羨ましがられるわ。
ほんま、君がやりたいようにやったらええ。
それ以外のことなんて、だいたいどうでもええねん。
最後に
今日は、「他人との比較をやめんまま、他人との比較を手放す方法」を伝えた。
ほんま、君の行動に善も悪もないんや。せやから、自分に不都合な呪いなんか、もうかけるな。
それさえせんかったら、他人と比べながらでも、心は自由でおれるようになる。
もう二度と、「他人との比較」で潰れることはない。おめでとう。
全部の自分を受け入れた君には、静かな余裕が芽生えてくるはずや。
その余裕で、もし近くに苦しんでる誰かがおったら──
そっと声かけてやったってくれ。
…もちろん、かけんでもええ。それもまた、君の自由や。
この記事を読んだ君が、
これからもずっと「好きな自分」でおれることを願ってる。
では、また次の記事で会おな。
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